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60年の歴史 第4章

第2節 社長交代と新たな分野の開発

開発型企業への助走

バブル崩壊の影響はボディブローのように、あらゆる産業に及んだ。なかでも、バブル期に大規模な設備拡張に走った自動車産業は国内需要の急速な縮小と円高で、トヨタ自動車を除くほとんどの企業が赤字に転落した。国内販売は1990年(平成2)の598万台(除く軽)をピークに急降下、93年には500万台の大台を割りその後も落ちつづけた。受注量減少と価格の低下は自動車業界に限ったことではなかったが、この時期、自動車業界はバブルの後遺症に苦しんでいた。当社でもアイシン新和、杉山工業、リケンなどからの自動車関連が軒並み受注減に陥った。トヨタ自動車でさえ94年度の売上高経常利益率(単独)は3.8%程度。日産自動車にいたっては611億円の経常赤字を計上、各社の最大の課題はコスト削減だった。一方、産業用機械もユーザーがバブル期に実施した過剰設備投資を抱えて内需が不振。加えて、93年初来の円高で国際競争力の低下を余儀なくされ、低迷した。

すべての製造業にとって、「製品の開発開始から出荷までの時間をいかに短縮し、コストを限りなく削減し、品質の良い製品を、安価に迅速に送り出せるか」が生き残りをかけた命題となったのである。また、生産現場のコンピュータ化によって品質や製品が均質化し、差別化や他社にない独自の技術、付加価値を持たなければ生き残れなくなってきた。

低圧鋳造機の導入

低圧鋳造機の導入

専務として経営に携わってきたなかで浩史社長には、「金型企業といえども製品づくりまで理解しなければ生き残れなくなる。研究開発主導型で開発力と固有技術を持ち、設計図面を起こす能力を持たなければ……」という危機意識が芽生えていた。この思いが決定的になったのは、92年ごろに元小松製作所中央研究所主任研究員で当時氷見工場に模型部門の部長として赴任していた山西昭夫氏(現、山西昭夫技術研究所所長)と、氏の紹介による大阪技研株式会社社長(当時)の畔柳基弘氏との出会いだった。

山西氏は、氷見工場を訪れた浩史専務(当時)に「これからの金型屋は金型だけ造っていても駄目ですよ。自分のところで製品を造ることができて、品質保証ができなければ生き残れない。そこから本当の技術力が上がっていくんです」とアドバイスを与え、畔柳氏もまた「これからの金型屋は金型だけを造っていては話にならない。最終品質まで保証できるとか、鋳造トライができるとか、そういう会社じゃないと駄目だ」と、持論を展開した。大阪技研は、アルミニウム鋳造設備および関連設備製造・販売やエンジニアリングを手がけているが、氏は、反射炉を導入した低圧鋳造機の開発やコンピュータ化など鋳物業界に新風を巻き起こした人物だった。

山西氏は後に当社の技術顧問に就任するが、畔柳氏に諮って当社の解析技術とCAD/CAMに注目。浩史社長に「解析技術とCAD/CAMに、低圧鋳造機を持って鋳造試作ができるようになれば、大阪技研が取引している韓国の大宇自動車、現代自動車、中国の長安汽車などの仕事も可能になる」と働きかけた。かつて行った流動解析サービスで現場を伴わないバーチャルの解析に信頼が得られなかった反省から、「金型産業といえども鋳造から製品づくりを理解しなければ生き残れない」と危機感を募らせていた浩史社長も、94年6月に低圧鋳造機LFB型一式を導入し、国内唯一の設計から試作鋳造までの一貫ライン構築に動いた。

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