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60年の歴史 第2章

第2節 木型から金型への転換

有限会社松村機型に法人化〜木型から金型への助走〜

長慶寺団地に移転・建設した有限会社松村機型製作所

小松製作所氷見工場からの受注は、折からの「投資が投資を呼ぶ」岩戸景気(1958年6月〜1961年12月の42カ月)と1964年(昭和39)の開催が決まった東京オリンピックに向けた公共投資・インフラ整備の増加、同社の海外展開に支えられて拡大の一途をたどった。

1966年の慰安旅行

「どんな時代が来ようと木型はなくならない」が幸作の持論だった。しかし、木型は労働集約型の産業で、職人の技術力によるところが大きく、暗黙知と言われる文字や言葉などでは伝えにくい経験と創造力が要求される。また、機械に頼れない部分も多く、技術の習得には1年以上かかると言われ、せっかく育てた職人も独立したりして後継者の育成も課題だった。大きな設備投資が必要ない代わりに価格は金型の10分の1程度と安価で、企業としての拡大は望めない。一方、金型は価格は高いが設備集約型で投資負担が大きく、その分利益率も低い。どちらも、企業規模は昔も今も10人程度の企業が圧倒的である。

しかし高度経済成長に伴って当時は、それ以上に激しい技術革新の波が型産業に及んでいたのである。時代は大量生産大量消費の時代に入っており、せいぜい造っても500〜1000回ぐらいまでの対応能力しかない木型では対応しきれず、1万個以上のロットに耐えられる金型の需要が増大する傾向にあった。小松製作所も、当社に金型への移行を望んでいた。品質、性能を重視する小松製作所にとって、協力企業である当社の近代化を促して生産性を上げるメリットは大きい。当社にとっても、中小企業が自力で進められる近代化には限界があり、企業として発展するためには技術面、販売面などの各方面にわたって小松製作所のような大企業の有形無形の指導が必要だった。

後に松村浩史現社長は、中部地区木型工業協議会の幹部から「あのころ、お父さんは、金型に移行しようか、どうしようかをずいぶん悩んでおられた。立派な決断をされましたね」と言われて、人には見せなかった幸作社長の苦渋に思い至ったという。当社における金型設計のパイオニアでもある寺島吉郎は、当時を次のように語る。

1970年当時の京町工場配置図

社長(幸作)から「金型設計をやってみないか」と声をかけられたのは、入社して7、8年くらい経ったころでした。私にも専門的な知識はありませんでしたが、「勉強してやりましょう」と応えたのを覚えています。小松製作所氷見工場の設計担当の人を訪ね、入り浸って勉強しました。当時小松製作所は都会で金型を調達していました。その設計図を見せてもらって、書き方や造り方を勉強していきました。私が本格的に金型設計を始めたのは1969年(昭和44)。この年に、金型製作に必要なフライス盤、セーパー、旋盤を導入しました。私たちは木型を経験しているから型の知識は十分持っていました。図面も読めるので造るものの形も十分わかります。しかし、木が金に代わるわけですから、どのようにして加工すればいいのかがわからないのです。社長は、鉄工所から職人を2人ほど引き抜いたりして、準備されていました。

寺島に設計を学ばせる一方で、幸作は1965年1月6日、松村木型製作所を改組して有限会社松村機型製作所を設立。これまでの「木型」を倣いフライス盤YD800を設置した新工場の配置「機型」に改称し、金型への本格参入を宣言した。「機型」としたのは、木型も金型も製作するという意味を込めていた。資本金100万円。代表取締役に松村幸作が就任し、当社は木型、金型の製造・販売をめざすことになった。

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