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60年の歴史 第2章

第2節 木型から金型への転換

長慶寺団地への移転と新工場の建設

再び動き出した小松製作所からの受注と、今後の自動車関連企業との取引を視野に入れて1976年(昭和51)、当社は、先に土地を購入していた長慶寺団地に本社・工場を建設した。資本金を1400万円に増資(7月16日登記)して建設資金の一部に充て、8月3日に竣工した高岡市長慶寺925番地に本社工場所在地を移転登記した。この土地は、京町周辺の市街地開発が進み、加えて、技術革新の進展、受注商品の変化に伴う相次ぐ機械設備の増設などで狭隘となったこと、企業団地のメリットなどを勘案して72年12月に幸作社長が長慶寺団地に土地1305m²を購入していたものである。

わが国では高度経済成長のひずみともいうべき公害問題や環境問題に対する世論の高まりから72年に環境保護を指向した「工業再配置促進法」によってあちこちで中小企業工業団地が建設された。富山県でも68年にイタイイタイ病が公害病と認定され、県民の環境に対する関心が高まっていた。

先述したように長慶寺団地は、67年に高岡銅器アルミ鋳物共同団地が設置されたことに始まる中小企業団地で、62年に富山市に建設された富山機械工業センターがその先駆である。そのモデルは、50年代にアメリカで生産拠点として考案されたインダストリアル・パーク(工業団地)で、一つには中小企業が集団化・設備の近代化によって合理化、省力化を図り、生産技術の向上、企業の構造的改善、新しい経営理念を導入し、体質を強化すること、二つには、労働環境の改善、労働意欲の向上を図り、明るい職場環境をつくり労働力を確保することを目的に建設された。

新本社・工場は、鉄骨造亜鉛メッキ鋼板葺き2階建て、1階886.28m²(事務所95.94m²、工場790.34m²)、2階86.94m²(事務所)、倉庫44.55m²で、計1017.77m²となった。建設費は3965万円。76年8月28日に関係者を招待して落成披露パーティーを執り行った。新築したばかりの会社に入った川合勇は当時を次のように話す。

私が入社したのは、会社が本格的に金型を開始したころで、金型の技術を持つ人が欲しかったときでした。その前に勤めていたところは、大きく分けると金型屋ではあったが、細かく分けると異分野、つまり押し出し金型を造っている会社でした。おかげで私は、一応金属を取り扱ったり、機械を操作することができましたから、金型技術を持った先輩や寺島吉郎さんの指導を受けて金型の仕上げ、組み立てをやりました。当時は機械はありましたが、今のようにコンピュータで動く機械ではなく、刃物も手づくりでした。主に小松製作所のブルドーザーに使われるための型を造っていました。

新本社・工場の移転新築を契機に、従業員の職場環境も向上し、当社は本格的に金型企業として新たなステップを踏み出した。

長慶寺工業団地構成

竣工なった新工場内

新工場落成披露パーティー(1976年8月28日)

新工場正門

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