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60年の歴史 第1章

第1節 松村幸作、その生い立ち

実務教育を重んじる父のもとで

松村幸作は、1923年(大正12)1月2日、射水郡下関村大野256番地(現、高岡市大野)に、松村仁三吉、さきの次男として生まれた。姉二人と兄、妹二人の6人兄妹で育った。年の離れた弟が一人いたが、幸作が大阪修業中11歳で亡くなった。兄妹は仲が良く、両親が畑に出ている間分担して片づけや庭掃除をしたという。

松村幸作の生家

現在の松村幸作の生家

生家は、現在大門大橋から高岡駅南に走る県道高岡青井谷線の大野交差点南側に位置する。下関村大野は、幸作が2歳の25年8月1日に高岡市に編入された。現在は閑静な住宅地だが、幸作が生まれたころは、西に1645年(正保2)に建立された前田利長墓所の広大でうっそうとした森と高岡市立女学校があるほかは一面田圃が広がっていた。

松村家は、2町歩の小地主。戦前、富山県の農村は、50町歩以上の土地を所有する60人程度の大地主を頂点に5反未満の零細農家が50%を超える構造になっていた。松村家は地主層に入り、贅沢はできないが生活には困らない家だったようだ。

後年幸作は「本が欲しいと柱にかじりついて泣いたこともあったが、結局買ってはもらえなかった」と家族に語っていたが、これも決して貧しかったからではなく、本好きな少年だったことを物語るエピソードである。幸作が小学校時代を過ごした昭和初期は、金融恐慌の影響で米価が暴落、農村は深刻な不況に陥っていた。このため地主の家といえども子供が読みたいという本を買って与えることは容易ではなかった。幸作の姉杉本文子氏によれば、「松村の兄妹は皆成績が良かったので、私が尋常小学校を卒業するときも、市立女学校がそばにあることから『進学させたら』と先生に勧められた。これに対し父は『90石や100石もちの次男坊でも上の学校には行かせていない』と言って、断ってしまいました。ただ、女学校は駄目でしたが、姉弟は皆、高等小学校には進学させてもらいました」と話している。後に幸作に木型職人の道を勧めたことをみても、父仁三吉は、高等教育より実務教育を重んじる人だったようである。もっとも幸作が高等小学校を卒業した1937年の富山県における高等小学校卒業者の進学率は約21%、大半が小学校を卒業すると働きに出た時代だった。当時は、2町歩の農家では二人の男子を進学させたくてもできなかったのかもしれない。幸作もことあるごとに、「両親は、踵きびすを前にして働いた」と、尊敬の念を込めて語っている。

1町歩=1ha=10反

 

1反からは約8俵(1俵=60kg)の米が収穫できる。

2町歩以上の土地を所有する農家は地主階級で、8反〜1町を自作農、1〜5反を自小作、耕す田畑を持たない農家を小作と呼んだ。

 

戦前の教育制度

 

戦前は、尋常小学校で6年間の義務教育を終了後、旧制中学校・高等女学校・実業学校・高等小学校に分かれて進学する「複線型」の学校制度を採用していた。高等小学校は中等学校に進学しない者が入学、2年制だが義務教育ではなく、卒業すると就職するか、師範学校や乙種実業学校(3年制など)に進学するのが一般的だった。

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